林業経済研究所の前任所長山縣光明氏が上智大学で、「ドイツの自然保護の思想的潮流を求めて」という講演をするというので、聞きに行いきました。
11月17日シンポジウムドイツの環境意識の背景を探る
(ドイツにおける森林意識の源流)
「環境保全には、劣悪な都市の生活環境からの保全・改善と、貴重は動植物の保全、美しい景観を護という二つの側面(源流)があり、それが、現在の持続性(ドイツ語ではNachhaltigkeitというのだそうです)につながる」
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リューネブルガーハイデの風景 |
このロジックを、ロマン主義などのたくさんの文学作品によりそいながら、解説、という質の高い講義でした。
といっても、あっという間のことだったのでよくわからないところがたくさんありましたが、これは上智大学にくればもっとよくわかるよ、という巧みな情報戦略かも。
以下にレジメを置きます。
1.はじめに―自然保護?
源流?/流れを育む大切な土壌/何を保護するのか?/保護するとはどのようなことか?
2.自然保護・環境保全における持続性という思想(理念)の源流
(1)現代の自然保護・環境保全と「持続性」の思想
(2)森から生まれた持続性の思想
塩と森―ライヘンハル:永遠の森の思想/ザクセン国鉱山総監督カルロヴィッツと持続性原則/ドイツの森を救った持続性の思想
(3)ある林政学者の嘆き―持続性原則に基づく森林管理のジレンマ
リューネブルガー・ハイデの自然の生々流転/ルドルフの告発⇔美学の追求したもの/郷土保護運動―いわゆる里山・里地の自然(=身の回りにある自然)を守る意識へ/ハイデの自然/残されることとなったリューネブルガー/森を巡る一般市民と専門家との意識のかい離
3.自然や森への愛と憧憬―醸成される市民の自然保護意識―いわゆる里山・里地の自然(=身の回りにある自然)を守る意識へ
(1)山、森、水に見る自然観の変遷
アルプスや湿原・原野を人はどう見たか(ドイツ語圏の例、日本の例)/中世における鉱山と水への恐怖―環境破壊への初期の恐れと反省/山に入る『ルーネンベルク』の主人公―変化する山や森に対する思い
(2)ルートヴィヒ・ティークと自然や森への愛情を育んだドイツロマン主義
憧憬、自然との連帯感、さすらう楽しみ等々―ロマン主義のトポス/『フランツ・シュテルンバルトの遍歴』にみるロマン主義と自然・森へのあこがれ/『金髪のエックベルト』:少女ベルタの感懐と鳥の歌うリート/多くの人々が口ずさむWaldeinsamkeitという詩的表現/ティークそしてアイヘンドルフらの功績
4.現代―統合される二つの自然保護の系譜、欠如?するもの
「役に立つ」(経済的価値:外部経済的便益も含めて:目的論的保護)から保護する⇒⇒ 役に立たなくても保護する/基底にあるのは愛、連帯感(共感・共苦・思いやり)/・便益論的、目的論的自然保護⇔倫理的自然保護⇔他者に対する本源的な心の動き(愛、共感、思いやり)に根差す自然保護 |
詳しくは、当日配布された参照すべき文献のデータを、本人からいただいたのでこちらを参照ください。
ドイツ自然保護の思想的源流 201611山縣講演レジュメ 1110 同配布資料
16世紀から「森への思いやりという心の持ち方(Waldgesinnung)」が製塩業などの木材エネルギーの持続可能性などを背景として生まれ、19世紀にはロマン主義文学とともに「森への愛情」が花開く、といったストーリーなのです(だと思います)が、気になったのが他の欧州はどうだったのか?みんながそんな意識をどれほそ共有していたのか?という点です。というのも・・・
(「チャタレー夫人・・・」による19世紀英国の森林意識)
これには、小学校のクラス会で聞いた、「チャタレー夫人の恋人」(D.H.ローレンス)というイギリス文学作品の中身との関係でした(突然妖艶な作品名が出てきて申し訳ありません)。小学校の同級生であるT君が東洋大学文学部でこの作品を研究していて、久しぶりのクラス会で講義とビデオを見るという企画だったのですが、ローレレンスの作品意図は、明と暗、精神と肉体、上流階級と労働者階級。町と森という二項対立で読み解く、との解説です。その二項対立の一つに「町と森」というのがあるがの気になった点でした。
(ご存知の通り)貴族の夫人(コニー)と使用人(メラーズ)とのラブストーリーなのですが、「その使用人を森番としたところがローレンスの重要なポイントなのだなー」などと。産業革命をけん引する明るい英国の町、の対岸にある暗い森。これが強調されるほど、最後の森番と貴族の夫人が二人でカナダに向かう結末が、劇的になるという趣向なのだと理解していました。
チャタレー家が炭鉱を経営する事業者であることもポイントで、エネルギー源としての森林の管理という側面が全く失われた瞬間に、暗い森になったのではないか。
いずれにしても、森林にいろいろな面で日が当たりつつある(面がある)日本の現代、それに至る過程の市民の心象にある森林像が、どんな道筋で何をきっかけに変化してきたのか、いないのか、海外の事例など、興味深くこの勉強部屋でも追いかけていきたいですね。
(キリスト教と自然破壊?)
講演会で山縣講演をめぐて議論があったのが、標記のキリスト教徒が人間と自然との間の不適切な関係の源流を形成しているのでないか、という点。(キリスト教にかけられた“嫌疑”)
「神は彼らを祝福して言われた。『生めよ、ふえよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。神はまた言われた、『わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたにあたえる。これはあなたがたの食物になるのであろう』」
(創世記の一節)
東洋と西洋の自然観の違いを面白く語るツールですが、この通説に対して、質問者に答える形で講演者の反論があありました。これについても、今後の課題とします。
山縣さん、T君よろしく。
junkan7-1(origineroforest)
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